観光ガイドブック
金魚ちょうちん「白壁のまち柳井をたずねて」金魚ちょうちん

 皆様、白壁のまち柳井にようこそいらっしゃいました。
 おだやかな瀬戸内海に浮かぶ美しい島々を車窓に眺めながらの、山陽路の旅は如何でございましたか。
 ここ柳井のまちは、瀬戸内海のつきでた室津半島のつけ根部分に拓けた、歴史の古い港町でございます。
 柳井は、昔「楊井津」(やないつ)と申しまして、古くから瀬戸内海要衝の地として栄え、十五世紀の頃には大内氏が領土東部の重要な港としていたことや、明応(めいおう)9年(1500)の晦日には、京都から山口へ下る足利将軍が投宿したことなど、当時から、周防部有数のにぎわいであったことがうかがえます。
 それでは、ただ今から「そぞろ歩きの似合うまち、白壁のまち柳井」をご案内して参りましょう。

1「白壁ふれあい広場」(観光案内所)

 ここは「白壁ふれあい広場」と申しまして、市民が気軽にふれあえる広場として昭和63年(1988)4月にオープンいたしました。
 正面をご覧ください。妻入り入り母屋造りの白壁の家並みが四棟建っていますが、これは今からご案内いたします江戸時代の白壁の町並みが、そのままデザインされたものでございます。四つの街燈は、明治時代、柳井で使われたガス燈が再現されております。また、この広場のまわりのねり塀は、江戸から明治時代にかけて、柳井のまちで流行したナマコ壁をデザインしたものでございます。
 今、皆さんがお立ちの地面は、江戸時代柳井の商家が好んで土間に用いた三和土(たたき)をカラー舗装で表現してますが、本物は、赤土と石灰をニガリで練り、それを土間に塗って、上からたたいてかためたものでございます。
 右手の建物は無料休憩所ですが、軒下のノレンは、伝統の柳井木綿を藍地に染め、旧柳井町の町章と現在の柳井市の市章をあしらっております。それでは、只今からご案内のコースをご説明しますので、あちらの案内図の前へお集まりください。

2「松本清張文学碑」

 これは、松本清張氏が「花実のない森」の中で、今からご案内致します白壁の町並みをみごとに描写した一節であります。
 「珍しい町の風景だ。近年、こういう古めかしい場所がだんだん少なくなっている。世に有名なのは、伊豆の下田と備中の倉敷だが、ここにもそれに負けないような土蔵造りの家が並んでいる。・・・・・」と書かれております。
平成9年3月16日に故松本清張氏御婦人・御子息などをお迎えして除幕されました。

3「町かど広場」

皆様ここは「ふれあい広場」と「白壁の町並み」(国の重要伝統的建造物群保存地区)を結ぶプロムナード(町かど広場)であります。これからご案内して参ります。「そぞろ歩きの似合うまち」の折れ曲がった道筋や、室町時代からの石積水路・町割り・美しい白壁を表現したデザインで、両側には柳井市木「ヤナギ」「ツツジ」を中心に植え込み、塀の控柱にはかこうがんを用いて、塀のイメージを、より引き立てています。
(総面積約400平方米・総工費6,800万円、平成4年12月完成)

4「宝来橋」

この橋が宝来橋(ほうらいばし)でございます。柳井川に最初にかけられ、寛文3年(1663)に干拓された古開作と柳井津を結ぶ唯一の橋として、230年間交通の要(かなめ)としてにぎわい、古くは「広瀬川土橋」とも「古市大橋」とも呼ばれておりました。
司馬江漢(しばこうかん)の『西遊日記』には、天明8年(1788)江漢がこの橋を渡って、西の田布施方面へ行ったことが記されております。又、幕末の柳井八景にも、この橋のにぎわいがうたわれております。

そこの下流左岸に立っております石灯籠は、藩政時代から船が入港するとき目印にした燈台のひとつと言われております。又、下流側の石段は、「がんぎ」といって、当時の船着き場の名残りでございます。
このお地蔵様は、火伏地蔵でございます。宝暦10年(1760)頃の建立ですが、今日もなお、お花が絶えた事がございません。
柳井の歴史を見ますと、亨保13年(1728)に、この川筋一帯の家屋177軒が焼失。その前後にも江戸時代に3回の大火があり、このような火伏地蔵を建立して、火よけの祈願をしていたのでございます。
一方当時の人達は、密集した町並みを火災から守るた
め、いろいろと工夫をいたしましたが、その頃から、この古市金屋の街筋一帯が防火、盗難予防のために土蔵式白壁造りの町並みになったようでございます。
石垣がきれいに築かれていますが、川辺の町筋を片側町(「かたこう」とも)と申しまして元禄時代(1688〜1704)にできた町筋に、最近復元されたものでございます。では、これから白壁の町並みへご案内いたしましょう。

5「平本食堂前」

これからご案内いたします古市金屋の白壁の町並みは、昭和59年(1984)、国の重要伝統的建造物群保存地区として、文部省から選定されました。保存地区は、この通り約200メートルの両側を中心に、約1.7ヘクタールの区域でございますが、その中で保存すべき建物は47棟指定されております。又、門や板塀など、保存すべき工作物が10件、石積み水路が33本ございます。修景すべき建物が14存在し、残念ながら建物が無くなっている空地が6筆数えられます。
建築年代別に見ますと、江戸中期以前が2棟、文化、文政期7棟、明治、大正、昭和初期が8棟で、残り30棟は江戸末期の建物となっており、この地域は江戸時代末期の景観をよく残しているところでございます。

6「皿田家前

この町並みの特徴でまず上げられますのは、ご覧のように道路に面して、一戸一戸を際立たせるように、そそり立つ三角形の破風(はふ)と、塗りあげられた白壁、つし二階に開けられた四角い二つずつの窓との対比、それが連続している景観の美しさでございます。
ほとんどが妻入りですが、各建物をよく見ますと、少しずつ意匠が違っており、それぞれ個性を持っていることがわかります。
又、もうひとつの大きな特徴は、その町割と敷地のつくり方でございます。この古市金屋地区は、町筋から北側50メートルのところにあります「新市水路」と呼ばれる用水路によりまして、他地区からの雨水を防いでおります。ですから、新市水路と柳井川との間に位置するこの地区の雨水は、室町時代頃から、柳井川に向けて作られた33本の石積み水路によって処理され、今日もなお、その排水溝がそのまま町割と敷地を形作っております。敷地は、間口が20尺(6.6メートル)とか、30尺(9.9メートル)の細長い形をしており、前に母屋があり、その奥には中庭、本蔵、
米蔵、離れ座敷等が配列されており、この広く細長い敷地と建物の配列から、当時の商家の隆盛がしのばれます。
軒先にぶらさがっている二つの玉は、「杉玉」と申しまして、「新酒が出ましたよ」という酒屋の看板として、まっ青い杉玉が掲げられます。それがだんだん枯れて色づくに従って、酒に「こく」が出ていくことを表すといわれています。杉玉のルーツは大和の三輪神社だそうです。
この町並みは、今もそれぞれ人が住んでおられますので、中は見られませんが、少し東側にございます県指定の「むろやの園」が公開されておりますので、後程ご案内いたします。
又、室町時代からこの町筋には鋳物師(いもじ)集団が住み、江戸時代の絵図には「金屋町」、「鍛冶屋町」の町名も見え、鉄製品の製造・販売もさかんだったようでございます。

7「柳井縞」

「風に糸よる柳井津の 港にひびく産物は 甘露醤油に柳井縞 辛き浮世の塩の味」

と、鉄道唱歌にもうたわれていますように、柳井の主な産物の中に、江戸時代から「柳井縞」がありました。
岩国藩は、この織物に税金をかける目的で、合格品には検印を押し、その合計で税をかけました。江戸時代の終り頃には、月に二万反位あったようです。 ところが、柳井商人は「柳井縞には検印が押してあって、品物はまちがいなく立派なものである」と宣伝し、大いに評判が良くなったそうです。 
しかし、しだいに化学せんい製品等におされて、すたれていきましたが、最近「柳井縞の会」が結成され、このまぼろしの「柳井縞」の復活に努力されています。 昔ながらの高機(たかはた)による柳井縞を織る実演が、この町並みの3カ所で見ることができます。なお、製品もそこで販売しておりますので、お立ち寄り下さい。

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8「かけや小路」

このひっそりとした美しい小路(しょうじ)を、「かけや小路」と申しますが、江戸時代に、この突き当たりにありました豪商「かけ屋」の名が付けられたものでございます。

この小路は、現在柳井川へ直接通ずる唯一の通路でございます。ここに先ほど申しました、石積み水路のひとつがはっきり見えますので、近寄ってご覧ください。このようにして作られている水路は、伝建地区内に33本あります。

9「佐川家本宅の前で」

ここは後程ご案内します佐川醤油蔵のご本宅ですが、幕末の建築で、商家の構えとしては、お隣りの国の重要文化財「国森家住宅」と後程ご案内します民俗資料館「むろやの園」と、この「佐川家」の三軒が代表的なものであります。
ここにある竹のカコイは、イヌバシリに立てた主家の防護柵で「犬矢来」(イヌヤライ)と申します。


皆さん、この上の2階の部分をご覧下さい。洋館風ですが、内部は純和風の造りであります。明治の初めに造られた柳井で最初の洋館で、柳井の近代化の最初ともいえましょう。ここには、明治23年に有栖川宮がお泊まりになりました。

10「国森家住宅」

この建物が、昭和49年(1974)、国の重要文化財に、指定されました「国森家住宅」でございます。
明和5年(1768)この町筋の火災で類焼したのち、間もなく建てられたと伝えられ、様式からしても、そのころの建物と見られており、昭和58、
59年(1983〜1984)の2カ年の歳月と、7,200百万円の経費をかけ、半解体修理されました。妻入り入母屋、本瓦葺2階建、土蔵造りの商家で、1階では約140平方メートル、西側に通り土間があり、「ニワオク」が台所で「カマド」があります。東側に前から「ミセ」 「ナンド」 「ヨコザ」 「ナカノマ」 「ザシキ」 をとり、この奥に「ロウカ」 と「ヌレエン」があって、中庭に面しております。2階は、約95平方メートルで厨子(つし)2階と申しまして、商品の置き場になっておりました
正面の戸が「ぶちょう」と呼ばれる板戸で3枚に分かれ、上の1枚は日中内側に吊り上げ、下の2枚は柱に彫られた溝に沿って取りはずし、店先をオープンにして商売をしておりました。
この通り土間が、赤土と石灰をニガリで練り上げて作った本物の「タタキ」でございます。

又、土間の中央部分の天井に穴をあけ、「滑車」(かっしゃ)で商品をつるして上げおろししておりました。先程も申しましたように、この通りに面して店を開き、裏の海岸から商品を積みおろしておりました。国森家はその昔、反物商等をしておりましたが、後にともし油や、びんつけ油を商うようになりました。
このほか、現在計画的にこの白壁のまちすじの修復工事が進められておりますので、早晩町並み全体がすばらしい江戸時代の姿になることでしょう。

11「佐川醤油蔵」

明治34年(1901)、大和田建樹(おおわだたけき)が作詞した、なつかしい「鉄道唱歌」にも歌われました甘露醤油が、柳井で生まれて約200年。ここでは、創業160余年の伝統が息づく醤油蔵の一部が「甘露醤油資料館」として公開されております。
ここには醤油づくりの数々の道具のほか、
昔からの商いの資料も展示されていますので、伝統的な食文化の一端にふれることもできる、めずらしい資料館でございます。 
柳井の醤油は甘露醤油と申しまして、刺身等のかけ醤油として有名で、天明年間(1780年代)高田伝兵衛によってつくり出されたもので、一度仕込んでしぼった生揚げ(きあげ)に、もう一度大豆と小麦の麹を混ぜ、2年〜3年かけて醸造するものでございます。
当時、岩国藩主の吉川公に献上したところ、「甘露 甘露」とほめられたところから名付けられたそうでございます。
江戸時代には7軒あった醸造元も、今はこの「佐川醤油店」の外2軒となりましたが、昔ながらの手造りの減塩でまろやかな味の甘露醤油を製造し、柳井の特産品として、日本全国はおろか、外国へも発送し、各方面で好評を得ております。

「鉄道唱歌」

風に糸よる柳井津の 港にひびく産物は 甘露醤油に柳井縞 辛き浮世の塩の味

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12「旭寿酒蔵

ここは、柳井唯一の地酒「旭寿」の酒蔵で、琴泉酒造株式会社と申しますが、創業は約160年前の天保8年(1837)で「旭寿」の銘柄は、中国の不老長寿の思想により、90歳を旭寿として盛大に祝うことに由来しているそうです。
ここでは、大吟醸酒を始め、あらゆる種類の日本酒が造られています。

13「町並み資料館前にて」

ご覧いただきましたように伝統的建造物群保存地区は、ここまで(交差点の一軒前の水路まで)でございますが、向こう側、洋風の建物の前まで進んでいただきましょう。
この建物は周防銀行本店として明治40年(1907)、建築されたもので、当時の銀行の重厚な姿を今に伝える、日本でも数少ない建物の一つです。設計者は明治期の洋風建築を数多く手がけた長野宇平治氏の
高弟佐藤節雄氏です。
周防銀行はその後合併を重ね、最後の所有者の山口銀行から平成10年末に柳井市に寄贈されました。
当時としては、非常に近代的な建造物として、また現在では、我が国の銀行の重厚な姿を伝える数少ない建築物のひとつとして、目をひくものでございまして、いわば、柳井の町の近代化のシンボルでございます。
皆さん、玄関右側の卵型の「いしぶみ」をご覧ください。これは、明治の文豪国木田独歩が、田布施町麻里布の浅海家に仮寓しておりました明治24年(1891)近所の石崎ゆり・みねの二少女に「よく勉強するように」と書き与えたものでございます。ちょっと読んでみましょう。

読書の戒(いましめ)

書を読むは多きを 貧るにあらず 唯章句熟読を要す 静思すること久しければ 義理自然に貫通す

独歩は22才のころ柳井に住んでおり、明治25年(1892)この付近に一時家を借りておりましたので、それを記念して昭和39年(1964)、柳井ライオンズクラブによってこの「いしぶみ」が建てられました。
この道を上に登っていきますと市立柳井図書館がございますが、そこには、若き日の独歩がイギリスの浪漫詩人ワーズワースの影響を受けて、美しい自然描写や人間描写をした不朽の名作をはじめ、彼の作品のほとんどを集めた「独歩文庫」(約150冊)を設けて、ご利用をお待ちしております。

14「金魚ちょうちんの由来」

赤と白のすっきりした胴体に、パッチリと黒い目を開いたおどけた顔の金魚ちょうちんは、幕末のころ、今からおよそ150年の昔、柳井津金屋の熊谷林三郎(さかい屋)が、青森の「ねぶた」にヒントを得、伝統織物「柳井縞」の染料を用いて創始したといわれています。
それを、戦後長和定二老の指導を受け、独自の技法を加えて今日の美しい金魚ちょうちんを完成したのは、大島郡の上領芳宏氏です。古くは多くの家々でおとなが作って子供に与えていました。
また、氏神様の祭礼などに「お迎えちょうちん」の中に交じって、色どりをそえましたが、昭和期に発行された日本郷土玩具番付(日本郷土玩具の会)等でも上位にランクされるなど、山口県の代表的な民芸品にまで成長しました。
柳井観光記念のおみやげ品の中へ、是非加えて下さい。きっと喜ばれることでしょう。

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15「本橋上」

これが柳井川でございます。先ほど申しましたように、1663年の干拓により人工的に作られたものでございます。
この橋は本橋(もとばし)と申しまして、明治38年(1905)新たに柳井町が発足した時、記念にかけられたものでございます。(現在は二代目)
この川は海に近く、満潮時には600メートル上流付近まで潮がのぼってまいります。以前、このあたりにはたくさんの鯉が放たれ、「鯉のまち柳井」とまでいわれていましたが、柳井川河川改良工事のためあちこちに移され、現在では一部の鯉が、少し上流に残っているだけとなりました。 
さて、江戸期の柳井地方は岩国吉川藩の御納戸として栄え、当時の産物は菜種油、蝋、木綿、金物、醤油などで、領内はもとより上は大阪、下は九州の肥後、五島列島あたりまで、商圏をもっていたようでございます。これら商品の輸送は、主として主として海運に頼っておりました。そのため古市金屋の問屋は、裏の海岸に船着き場を設けて、20石積み〜125石積みの船を横付けにしたり、沖合の大きな船へ小船で運んでいたようでございます。その頃の船着き場の石段が
先程ご案内いたしました宝来橋付近に今もなお残っています。

16「商家資料館むろやの園」

「むろやの園」は、江戸時代の中期から、小田家が屋号として用いておりました「室屋」(むろや)に由来して名付けられたものでございます。
妻入り入母屋風、2階建土蔵造りの商家でございますが、向かって右側に一部大屋根を配しておりますので、いつの時代か隣の屋敷を購入して、間口を広げたことがわかります。
 
前の板戸は「ぶちょう」と申しまして、上の1枚は吊り上げて、下の2枚は柱に彫られた溝に沿って、上に取り除いて商いをしておりました。又前の長石にミゾがありますが、封し、類焼を防いだのでございます。
では、家の中にお入りください。
この「家屋」は、元禄元年(1688)に小田善四郎が、この柳井津で商いを開業したのが始まりで、当時は、すげ笠、打ち綿、反物などを扱っておりましたが、次第に油を主とした商いに移り、後には大地主となった豪商のひとりでございます。

最盛期には、20石から125石船を50隻も抱えて、西は九州五島列島から、東は大阪と手広く商取引を行い、西日本でも有数の油商であったと伝えられております。岩国藩主から帯刀も許され、町年寄を勤めた主(あるじ)もいたようでございます。
この建物は、現存する古文書、絵図面、祈祷札などから、亨保17年(1732)頃建築されたものといわれております。この家の敷地も細長く、間口は東西に約20メートル、奥行きは南北に約119メートルもあり、屋敷面積は2400平方メートル、建物面積は1500平方メートルで、わが国に現存する町屋のなかで最大級のものといわれております。
8室もある母屋をはじめ屋敷内の建物は、全部で11棟あり、江戸時代の屋敷構えがそっくり残っておるのが特色であります。
屋敷内の展示品は、小田家が代々使ってきたものがほとんどで、昭和54年(1979)、生活用具1500点、古文書1100点が建物とともに、山口県有形民俗文化財に指定されております。
見学時間はざっと見ても、30分程度かかります。

17「湘江庵」

このお寺が、湘江庵(しょうこうあん)でございます。
今から、約1400年前、聖徳太子の義母にあたる般若姫(はんにゃひめ)が、九州から船で上京の途中あらしで苦しまれ、柳井津の入江で里人に清水を求められたそうでございます。その時、この井戸の清水を差し上げたところ、姫は、大変おいしかったと喜ばれ、お礼に中国の明帝大王(みんていだいおう)から贈られた楊枝(ようじ)を井戸の傍らにお差しになったそうでございます。
その楊枝が、一夜にして芽をふき、柳の木になったと言い伝えられておりますが、この柳と井戸を結びつけて「楊井」の地名が生まれ、江戸時代に入ってから「楊井」から「柳井」に変わったそうでございます。
さて、境内の左側に御堂がありますが、この中の中央に安置されております十一面観音様は平安末期の作で、左側の仏像は日本三大虚空菩薩(こくぞうぼさつ)のうちの一体として、たいへん有名でございます。
また、本堂の左手前に立つ歌碑をご覧ください。
「あられふる けさのあらしの ふきおちて やないのそこに くだくたまみず」と刻まれていますが、これは、元禄2年(1689)、井原西鶴(いはらさいかく)が、全国の名勝旧跡を詠んだ歌を集めて『一目玉鋒』(ひとめたまぼこ)という本を出しましたが、その中にある、柳井を詠んだ歌でございます。また、この湘江庵は、江戸時代、柳井の町人が集まって俳句を作ったり、お茶やお花や謡曲の会などが催されたようでございます。今日流に申しますとこのお寺は、当時の公民館だったわけで、柳井の江戸文化発生の地ともいえましょう。

19「市山医院跡」

ここが明治の文豪国木田独歩とゆかりの深い市山医院跡でございます。(独歩は、22歳から24歳のころ、一家とともに柳井に住んでおりました)市山家の初代、(当時柳井小学校の教師)増太郎は、明治25年(1892)4月、このお庭「独歩苑」のまん中付近に独歩一家のために家を新築いたしましたが、現在、その家は少し上に移築保存されており、また傍らには市山家の先代正(つかさ)先生が建立された「独歩碑」もございますので、後程そのなだらかな細道をたどってご覧ください。
ところで、独歩が柳井をテーマにした作品には、『少年の悲哀』『置土産』『帰去来』『欺かざるの記』などがありますが、中でも名作短編小説『少年の悲哀』は、ここ市山家に仮寓していた時代を題材にしたもので、代表作のひとつと申せましょう。

20「独歩記念館」

ここは、明治の文豪国木田独歩一家が明治25年〜27年の間住んでいた家であります。この下の市山医院の先代増太郎が独歩一家のために新築して貸し与えたのが明治15年(当時はこの下の池の付近にあった)ですが、大正に入って病室が建てられる時に、ここに移転されたのがこの建物であります。市山家のご好意によりまして、昭和63年に土地・建物を一括して柳井市が買収し、修理して「独歩記念館」としました。全国的にも独歩の旧宅の存在はめずらしく、最も多感な青年時代を柳井で過ごした独歩は、柳井のことを「国許」とか「帰省する」と表現している如く、柳井を彼が故郷としているにふさわしく、私どもはこの独歩記念館を中心として独歩を末長く後世に伝えていきたいものだと思います。最近は学生さんを中心とする独歩研究の方々が多くここを訪れていますが、独歩の名作短編『少年の悲哀』は彼がこの家に住んでいたころのことを中心に創作されたものであります。なお、独歩の最後は柳井港の「藤坂屋」ですが、柳井名産三角餅を紹介した短編『置土産』は、藤坂屋時代の創作であります。

21「光台寺」

一見風変わりな楼門が見えておりますが、このお寺が光台寺(こうだいじ)でございます。山門(さんもん)は中国明朝(みんちょう)様式で造られ、竜宮城を思わせますが、この楼門の下で手をたたきますと、ワンワンと反響するところから、別名を「わんわん寺」とも呼んでおります。
皆さん、楼門右手側に立つ石碑をご覧ください。「国木田独歩曽遊の地」と書かれております。
独歩は(22才から24才のころ、この下の市山医院の邸内に住んでおりましたが)今通ってまいりました道を歩いて、この楼門をくぐり、少し上にございます妙見社(みょうけんしゃ)にお参りをし、柳井のまちや瀬戸内海のすばらしい景色を満喫していたようでございます。 
名作短編小説『少年の悲哀』は、この妙見社への散歩の途中、よく出会った美しい女性がモデルになっております。柳井市は、この道を遊歩道「丘の道コース」に選定、現在も多くの若者が散策をしております。
さらに、この道をしばらく登って参りますと、柳井の名刹(めいさつ)金剛寺がございますが、独歩もよくお参りしていたようです。このお寺は「柳井大師」と申しまして近郷の信者も多く、特に毎年3月21日の縁日はたいへんなにぎわいで、柳井三大まつりのひとつになっております。
金剛寺には新四国八十八箇所(お山巡り)があり、4月には大師山公園(だいしやまこうえん)の桜もみごとでございます。

22「普慶寺」

このお寺は真言宗両石山普慶寺(ふけいじ)でございます。
御本尊の千手観音様は大内氏が納めたという平安時代末期から鎌倉時代初期ごろの仏像で、柳井市の文化財に指定されておりますが、秘仏となっております。
このお寺は、古くから大内氏や吉川氏の信仰が厚く、室町時代に周防三十三観音霊場の第5番札所に定められました。
境内の南東隅に、変わったお墓がございますが、これは「雨月庵破笠」(うげつあんはりゅう)のお墓でございます。破笠は、江戸時代の中期から昭和10年代まで続いた正風美濃派(松尾芭蕉が創始者)の柳井俳諧第2代宗匠で、彼が亡くなった寛政2年(1790)に、その門弟によって建てられたものでございます。 このほか、文化的価値の高いものが数多くございますが、それぞれの場所に説明板がありますので、くわしくはそちらをご覧ください。

23「代官所跡」(普慶寺前)

この川を「姫田川」(ひめだがわ)と申しますが、今から約1400年前、般若姫が九州から上京の途中、ここ柳井へ上陸された時に、この川でお手をお洗いになったことから姫田川と呼ぶようになったといわれております。
このお寺を普慶寺(ふけいじ)と申しますが、その南側一帯には、岩国藩柳井組の代官所がございました。
ここに代官所が設けられたのは、承応3年(1654)のことですが、その後柳井津に町制がしかれ、代官所とともに柳井津町奉行所が置かれるようになりました。代官と奉行は兼務で、岩国藩から派遣されており、柳井津町・柳井村・古開作村・新庄村・余田村・堅ヶ浜(現在は平生町)の範囲を治めておりました。 ここには、役所の建物の外、役人の上・下屋敷や米蔵などがあり、生活に必要な物質は姫田川を利用して船で運ばれておりました。
更に、そこに見えます山口銀行柳井東支店の場所には、岩国藩の命令を伝達する「御高札場」が設けられ、江戸時代の政治の中心地がこのあたりだったことがうかがえます。
当時の役所の配置図がそちらの「説明板」にかかれておりますので、どうぞご覧ください。

24「長岡外史生誕碑」

この石碑には、「日本航空界とスキー普及の恩人、長岡外史ここに生まる」と刻まれております。
ヒゲの将軍といわれた陸軍中将長岡外史は、安政3年(1856)に、ここにあった野村家で生まれました。「日本航空界の父」と呼ばれ、また日本にスキーを導入したことでも有名で、母を野村トキ、父を明治維新の志士小方謙九郎と申します。
今はこのようにりっぱな道路になっていますが、柳井名産「甘露醤油」はこの道路付近一帯にありました高田家「ともや」によって、約200年前に生まれたのでございます。

25「菅原神社(天神様)」

山口県周東部の三大天神のひとつとして知られております柳井の天神様はこちらでございます。
今から約300年の昔、柳井の豪商貞末宗故(さだすえそうこ)が公用で大阪へ上ったとき、天満天神へお参りいたしました。そのとき履いていた木履(ぼくり)の歯にはさまった天神様の像を持ち帰ってまつったのが始まりだといわれております。 
この天神様の祭りは、今日では4月25日直前の日曜日に行われておりますが、時代絵巻の再現を思わせる大行司・小行司の大名行列は、「柳井まつり」、「柳井大師縁日」とともに、たいへんなにぎわいでございます。
皆さん、こちらをご覧ください。
天神様は学問の神様として有名ですが、この「退筆塚」(筆塚)は約130年前に建てられたもので現在も天神祭りの前日に「筆塚祭」がおこなわれております。これは、樹齢200年以上の大ソテツ群で、天然記念物として柳井市の文化財に指定されております。
また本殿の左側にあります建物は住吉神社でございますが、この社前で毎年7月27日の夜古式豊かに行われる「湯立神事」も、とてもにぎわいをみせております。
皆さん、「そぞろ歩きの似合うまち、白壁のまち柳井」は如何でございましたか。柳井にはこのほか、たくさんの観光地や文化財がございますので、又の機会に是非、お越しくださいますよう心からお待ち申し上げております。

基礎資料提供:柳井市観光協会
=一部修正=




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